第二・第三鳥居は平成10年7月6日、多良見町教育委員会より『多良見町有形文化財』としての指定書を交付されました。
第二鳥居は元禄5年 (1692年) の建立で、施主の氏名は喜々津村中 宮司正法寺 神職松井左近』とあります。
第三鳥居は天明7年 (1787年) の建立で、『喜々津村中 前田段十』が施主となり、文久2年 (1862年) に修理した旨が刻まれています。
第二鳥居
第三鳥居
秋篠宮殿下に献上致しました鯰の置物です。
竹迫純享 氏・西平公洋 氏・西平久佳 氏 ご奉納
欅一枚板に彫刻された見事な鯰額です。
後田國光 氏 ご奉納による大杉衝立です。
一緒に映っているのが後田様です。
北村西望 師による奉納額で、題字は 『 神恩無窮 』 です。
こちらも同じく北村西望 師による奉納額で、題字は 『 萬民息災 』 です。
御鎮座450年を記念して従来の社殿を大屋根で覆い(鞘堂と称する)
拝殿以下を改築しました。その際、故北村西望 師が揮毫されたもので
『神恩無窮』 『萬民息災』は師の敬神の念が込められています。
明治天皇陛下以下、歴代天皇陛下の肖像画です。近所の方よりのご奉納ですが本人の意向により匿名とさせて頂きます。
かこい組様 ご奉納による参道階段の手摺りです。二の鳥居下の階段まで続いています。
白磁菊花彫「二段香爐」
茂右エ門窯工房 第15代 茂右エ門 作
平成15年10月15日の例祭に奉納されました。同作品は3個作成され、内2個は
秋篠宮家と明治神宮に献上されています。
神 馬(しんめ)
昭和49年12月20日
奉納者
長崎新菱農機株式会社
取締役社長 宇土謙治
参拝者用長椅子 10脚
平成3年10月
かこい組(有)より奉納
幟立て支柱 1対
平成3年10月
山中区長(総代会監事) 平野豊明氏奉納
手水舎
平成4年10月
奉納者 二十五日会
松尾光治 松尾富雄 西村八郎
赤瀬建児 後田國光 田島利雄
相良作實 浜松隆明 諸岡 博
中村好美 木下 實 松尾春雄
現在は木造銅板葺きに改築されています
手水舎 木造銅板葺き
平成27年5月
奉納者 総代会会計
あそみや第63号を参照
手水舎 龍の口 北島康平氏奉納
掲示板
平成4年正月
奉納者 喜中同窓会有志一同
厄晴記念として奉納された
鯰絵
平成10年
松尾章平氏奉納 須賀五々道画伯作と云
御神輿
平成16年5月29日 奉納式斎行
元総代会会長 上原国雄氏奉納
神輿庫
平成16年6月 竣工
基礎工事 森開発㈱
建物工事
㈲木下建築 ㈲多良見砕石
㈱溝上建装 ㈲森商会
㈲北島商事 ㈲雄苑
平成17年
蔭山嶋雄氏奉納
中国で購入した「鯰」の絵皿
平成17年10月 奉納
シーサイド在住の宮原瑞雄氏が描き奉納された
参道大鳥居補修工事
平成20年12月2日解体工事開始
12月20日組立完了
参道大鳥居補修工事
基礎工事 ㈱森開発
石工 ㈲松尾石塔店
工事費奉納
松本淳(恵風園園長)
前田信太郎(阿蘇神社総代会長)
由緒掲示板
平成22年12月
徳永建設(株)徳永孝次氏奉納
健磐龍命が立野のスガルを蹴破ると、阿蘇谷の湖の水はごうごうと流れ出ました。ところが、この湖の主とも精ともいわれていた大鯰が湖の水とともに流れ出て、遠く上益城の村に流れつきました。そこでこの村を鯰村(上益城郡嘉島町鯰)というようになったそうです。
村人がこの鯰を片付けるのに六荷(ろくか)(天秤棒で六回分)あったので、この部落を六嘉(ろくか)(上益城郡嘉島町六嘉)といいます。また、阿蘇谷の黒川の流れが曲がりくねっているのは鯰の流れ出た跡ということです。
鯰の別の話では阿蘇谷の水は流れ出たが、中ほどに大きな木のようなものが往生岳(おうじょうだけ)の麓から尾籠(おごもり)(阿蘇郡一の宮町尾籠)まで横たわっています。よく見ると大鯰が往生岳にヒゲを巻き付け、尾籠に尾を引っかけています。
(尾籠の字名の起源もここからきています。)そのため阿蘇谷の上半分の水は引きません。
大明神は『開拓のさまたげをするにくいやつ』とこの鯰を始末して焼き、その灰が灰塚であるといいます。灰塚は阿蘇駅と内牧駅の中ほどの北側にある丘で、本塚・北塚・灰塚と三つの丘の最も低い丘で、この塚には石はないといいます。また鯰の霊は国造神社の神殿の右側の小さい祠(ほこら)に祀ってあります。
阿蘇の神話と伝説』 (宮川進編)より
当社に於いても以前は第一鳥居前に池(現在この池は国道の拡幅工事のため廃池となる)があり、鯰池と称して川などで釣れた鯰は決して殺生することなく池に放すなど大切にされてまいりました。阿蘇神社の氏子は今でも鯰を神様のお使いと称され尊ばれています。
平成7年、有田焼窯元に依頼して『鯰』の置物を作成いたしました。幾度となく型の手直しを重ね2体を焼き上げ、1体を当社御神前へ奉納し、1体は秋篠宮殿下に献上申し上げました。
むかし天照大神の孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、日本の国を治めるために日向の高千穂の峯におくだりになりました。そして瓊瓊杵尊から三代目の神武天皇が宮崎の港から舟出して大和の国(奈良県)で日本の国をはじめてお治めになりました。
神武天皇は、孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)に九州の地を治めるよう命じました。阿蘇を開発した神として阿蘇神社の主神で阿蘇大明神ともいいます。
健磐龍命は山城の国宇治郷(京都府宇治市)から瀬戸内海を渡り、宮崎の港に着き、宮崎で祖父に当たる神武天皇が住まわれた跡に、神武天皇の神霊(みたま)を祀られました。現在の宮崎神宮がその社で、宮崎神宮の古い記録に健磐龍命のことが書かれています。
健磐龍命は九州を治めるには九州の中央部に行く必要があると考えました。海岸を北に進み、延岡から五箇瀬川(ごかせがわ)をさかのぼり、高千穂そして草部(くさかべ)(阿蘇郡高森町)に着きました。ここには伯父にあたる草部吉見神(くさかべよしみのかみ)が居られ、たいへん喜んで健磐龍命を迎えました。ここで吉見神の娘、阿蘇都媛(あそつひめ)と結婚します。
二人は火を噴く山、阿蘇一帯に新天地を求めて進みます。その頃の阿蘇は阿蘇谷、南郷谷(なんごうだに)とも広々と水をたたえた大きな湖でした。この湖の水を流し出して開拓しようと一大決心をしました。
先ず二重(ふたえ)の峠のところを蹴破ろうとしましたが、二重になっていて壊れませんでした。そこで立野(たての)(阿蘇郡長陽村立野)のスガルのところを蹴りますと、山は音を立てて崩れ湖の水はどっと流れ出ました。
スガルとはスキマガアルを縮めた名前とも、『すっかり』 と穴が開いたからともいわれています。
また、蹴破った時の土くれが飛んできたのが、熊本市の小山戸島(おやまとしま)であり、菊陽町の津久礼(ツチクレ)であるともいわれます。数鹿流が滝(すがるがたき)は下野(しもの)の狩りで追いつめられた鹿が数匹流されたので名付けられました。
健磐龍命は水がなくなった阿蘇谷と南郷谷を開拓し、作物をつくり豊かな土地にしました。健磐龍命のお墓は阿蘇神社の桜門の東にある『一の神陵』で、阿蘇都媛のお墓は『二の神陵』といわれています。
『阿蘇の神話と伝説』 (宮川進編)より
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